涙
「尚香!こんなところにいたの?
兄君がお呼びよ。」
「稲…。」
夕日の見える丘の上にたたずむ友を呼んだ。
振り向いた友の瞳には涙がたえず溢れていた。
「尚香?どうしたの?」
いつも強く溌剌とした友は泣いていた。
この世界に来た時初めて会った、古から来た少女。
この辛い境遇の中でも、弱音を吐くことはなかったのに。
どうしたのかしら?
「お父上や兄君の事が心配で…?」
一人で耐えていたのかもしれない。
父のために敵に味方する自分や兄を、そしてもう一人の兄が敵になったことを。
そう思って聞いたけれど。
尚香は首を振った。
「違うの…違うの、稲。」
そうじゃない、と彼女は言う。
では…一体?
「尚香、教えて。
あなたの涙の原因を。」
友の肩を持って聞いた。
すると友は顔を上げて言った。
不安そうに。
「何か大切なことを忘れている気がするの…。
とても、とても大事な事を…。」
友の涙は止まらなかった。
自分でも分からなかったのだろう。
これは時空をゆがめられた原因か、と心配に思った。
########
「…そうか、尚香がそんなことを…。」
「はい。お心当たりはございませぬか?孫権殿。」
心配事を友の兄に聞くことにした。
彼なら、何か知っているだろう。
「……稲殿、この事は本人にも…周囲にも内密にしてもらいたい。」
「…はい?」
「特に父や…いずれ対峙するであろう兄・孫策にも…。」
孫権殿の目は真剣だった。
心当たりはあったのだろう。
でもなぜ、父君や兄君にまで黙らなければいけないのか。
そして何故本人にまでその忘却の原因を黙るのか。
分からなかった。
「稲殿。この時空は歪められている。
それゆえにきっと尚香の記憶も混乱を起こしているのだろう。
それはお分かりになると思う。」
「…はい。」
孫権殿はそう前置きをした、ゆっくりと語り始めた。
「これは…父や兄は知らぬのだ。
尚香は二人が亡くなったあとある者に嫁いだ。」
「…!」
驚愕した。
孫権殿は覚えているのだ。
本当の未来で起こった事を。
「相手は敵国…蜀の君主の劉備だった。
我々は卑怯にも結婚を建前に彼をわが国に呼び出し殺そうとしていたのだ。」
「……なんと…。」
それは戦国の世においてもありうることではあった。
だが、納得はしたくない方法でもあった。
それを友は…。
「しかし、政略結婚であったはずなのに尚香は劉備を本気で愛するようになった。
そして旅立ったのだ。二人で彼の国へ。」
「…まあ…。」
そのような情熱的な愛を、友は抱いていたのか。
では尚香が忘れている大事なこととは…。
「では…尚香の言っていた事は…。」
「そう、劉備の事であろう。」
かの人はどのような人であったのだろうか。
そして今は…尚香は忘れているであろうかの人は…今は…。
「その方は…今どうなさっておられるのですか?
「今は父と同じく行方が知れぬ。
何処かへ捕らわれているらしいという情報は入っているのだが。
蜀の臣下が必死で捜索中ということだ。」
「そうでございますか…。」
孫権は少し辛そうに顔を俯かせた。
もし、彼が見つかっても尚香に会わせることはできない。
そう思っているのだろう。
たとえ尚香が記憶の霧の外を想い涙にくれていても。
########
「尚香…落ち着いた?」
「うん…ありがとう稲、大丈夫よ。」
私はあなたの行く末を見守ることはできない。
だけど、あなたの幸せを願っている。
せめてこの辛い時を、今だけは共に頑張りましょう。
私も、頑張るから。
あなたが再び愛する人に会えるように。
END