夏の暑さが薄れ秋も深まる頃。
ここ、右大臣邸の対の上で、部屋の主が庭を眺めていた。
「奥方様…莉羅様。撫子がさかりでございますね。」
「ええ。」
女房の一人が庭の花を愛でる主に声をかける。
いつも穏やかな主は、撫子を見つめる時はとても幸せそうだ。
「奥方様は撫子がお好きでいらっしゃいますのね。」
そう問われると、彼女は女房に顔を見せず切なげに笑んだ。
「ええ、大好きよ。大切な思い出があるのですもの。」
「まあ。」
女房はきっと殿である右大臣と、何か優しい思い出があるのだろうと思った。
だからそれ以上は追求しなかった。
奥方…莉羅姫もそれ以上は何も言わず。
大切な思い出を心によみがえらせていた。
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それはまだ莉羅姫が十になろうかという少女の頃。
お付の者の目をこっそり逃れ、莉羅姫は一人街を探検していた。
初めて見る外の世界に夢中になっているうちに、たどり着いたのはある寺院。
おそらく名のある貴族による保護を受けているのだろう。
質素ながら大きな門を堂々と構え、小さな姫を知らず知らずのうちに威嚇していた。
特に門の上につけられた魔除けの鬼瓦は、少女の心に恐怖心を植え付け。
その場からすぐに逃げたくなったが、足がすくむ。
少女は大きな声で泣き出したくなった。
その時。
「おや?」
門の内側から低くゆったりした男性の声が響いた。
それは恐怖にとらわれた少女の心に優しく響く。
そして声の主が現れた。
20も過ぎようかという若い僧侶。
莉羅姫が驚いたのは今まで見た人の中で一番整った、品のある美しい顔立ちだった。
莉羅姫にとって僧というのは年老いた難しいことを言う人、という認識だったのに。
そんな彼が姫には仏様に使わされた戦士のように見えた。
「どちらの姫君であられますか?」
彼はにっこりと莉羅姫に微笑みかけた。
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それから彼は莉羅姫の屋敷まで彼女を送り届けてくれたのだ。
道中、二人は沢山の話をした。
どの花が好きか、季節が好きか。
街中で売られているものを見てはあれは何で、どういう風に使うものか。
彼は莉羅姫の言葉を優しく聞いて優しく答えてくれた。
そして握られた手はとても暖かくて。
少女の心に暖かな灯火を与えてくれた。
屋敷に戻ると彼は一輪、花を差し出した。
「なあに?」
「今日の冒険のお土産ですよ、姫君。
あんなに遠くまでよく頑張りましたね。」
「わあ。」
ありがとう、と姫は花を喜んで受け取った。
「これはなんていうお花なの?」
「撫子ですよ。
可愛らしい姫君へ私からの贈り物です。」
「ありがとう!お兄様。」
「いいえ。」
「お兄様、また会える?」
その質問に何と答えたのか。
莉羅姫はよく覚えてはいない。
あの時の笑顔と、その後酷くしかられた記憶の方が鮮明だったから。
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「奥方様、奥方様。」
「あ…、ごめんなさい。どうしたの?」
思い出にふけっていると、女房がまた声をかけてきた。
「迎部僧正がお見えです。
殿の召還を受けたのでこちらにもご挨拶を、と…。」
その言葉に、莉羅姫は胸がどきりとざわめくのを感じた。
ああ、またあの方が来て下さったのだ。
嬉しいけれど…それはつまり。
あの方はまた辛い想いをされることになる…。
莉羅姫は複雑な想いを胸に、立ち上がった。
「今参ります。」
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「僧正様。ようこそおいでくださいました。」
「莉羅姫様。ご機嫌はいかがでございますか?」
「貴方様が来てくださったのですもの、悪いわけがございませんわ。」
そこに居るのはあの日に出会った初恋の人。
あれから10年以上の時が流れ。
たくさんのことを知り、たくさんのことを理解した。
夫となった人、初恋の人、そして私や絽奈姫に真璃姫…。
それぞれがそれぞれに辛さや哀しさや…愛しさを抱いている。
そしてこの人は…優しすぎるゆえにきっと誰よりも辛い。
だからこそ私はこの人を愛している。
心ひそかにあなたを。
「僧正様。」
「何か?」
「かつて貴方のくださった撫子の花は今でも咲いておりますわ。」
貴方に会えて私は幸せです。
「姫…。」
「貴方様も貴方様のお好きな花をどうぞ咲かせてくださいませ。」
貴方も幸せになって欲しい。
「ありがとう。」
たとえ貴方自身がそれを諦めてしまっていても。
私はそう願わずにはいられない。
end
はい、ついにお嫁さんが出てきました。
相変わらず私の中でアリーラさんというのはこういう見守り方のようです。
こんな懐の深い女性絶対いませんよ…。(^^;)
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