河
「尚香様!こちらにおいででしたの?」
長江のほとりにいた女主人を見つけたのは一人の女官だった。
彼女は、主の姿にいつもと違う空気を感じた。
年を経てなお毅然と美しく、かつて戦場を駆けた姿のままのいつもの姿ではなく。
どこか寂しげな後姿。
その手には出かけるときに携えていたはずの武具がなかった。
久しく使わなくなっていた武具を手に眺めていたのを見たのは確かに今朝のことだというのに。
「尚香様?」
武具はどうなさったのですか、と口にしようとしたとき。
尚香がゆっくりと話し始める。
「昨日の夢にね。玄徳様がいらっしゃったのよ。」
「あ…。」
彼女の口から出たのはかつての夫の名前。
二人で呉の国を飛び出すほどに絆の深かった夫。
彼はすでに数年前に病没していた。
その時の尚香の嘆きは、表には出さなくとも十分に伝わっていた。
最初は政略結婚だったのに、お互いに惹かれあい。
人生を共にするはずだった。
そのつもりで一緒に祖国を出た。
でも残酷な時の流れは、それを許してくれなかった。
「劉備様の…。」
彼の夢を見たと、彼女は言う。
「ええ、あの頃のようにとてもやさしく微笑んでいらしたわ。
そして、言われたの。
幸せでいてほしいって…。」
「……。」
尚香の話に出る彼らしい言葉だと、面識のない女官でもそう思った。
かの人も、主のことを深い愛で包み込んでいたのだろう。
「だからね、捨てちゃった。」
「え?」
「武具よ。河に沈めたの。」
「え?!」
##############
「精が出るな、尚香。」
「玄徳さま!」
その日蜀の城で、尚香は兵を相手に訓練にいそしんでいた。
どうやら今も、目の前の兵を打ち倒したところのようだった。
舞を舞うような尚香の戦いぶりは、誰をも魅了するものであり、見物のものも奥方になった少女の戦いぶりに歓声を上げていた。
「今10人抜きをしたところなの!凄いでしょ。」
「そうか、立派だな。」
大好きな人にほめてもらいたくて夫の下に寄ってきた妻に、玄徳はやさしく微笑んだ。
どこか寂しそうな笑顔で。
「玄徳さま…?」
「ああ、なんでもない。
これから私は夕餉に行くが、そなたも来ないか?」
彼は来い、と命令はしない。
自分の気持ちをごまかさない妻を大切にしているのがよくわかる。
周囲の兵も、そんな主君の性をよく理解しているので、誰も不思議には思わない。
「はい!!」
夫の誘いに、尚香は大喜びで応じた。
##
「ああ、美味しかったv」
食事に満足した尚香は心からの賛辞を述べた。
そんな素直な様子に、玄徳は楽しそうに笑う。
「ふふ、呉の食事とは違うと思うが、口に合うようでよかった。」
「あら、呉の食事もとても好きよ?」
「そうであろうな、そういう顔をしている。」
「でしょ?」
この蜀に嫁いできて、尚香は数えるほどしか夫と食事をしていない。
だからこそ、互いにこの時間を大切にしたくて。
二人はよく話した。
「…尚香、戦うのは好きか?」
ふと、玄徳は声を漏らす。
その言葉に、尚香は手を止めた。
玄徳の聞かんとするところをすぐに理解したからだ。
だから、尚香は素直に答えた。
「勝負するのは好きよ。…でも人を殺すのは…キライ。」
「…そうか。」
「だけど戦うのは止めないわ。自分ひとり安全なところにいるのは嫌だもん。
私だって…民を…あなたを守りたいから…。」
玄徳はまた、笑った。
そして小さく小さく言った。
「幸せでいてほしいな…そなたには。」
聞こえたけれど聞こえないフリをした。
###############
「戦うのを止めろって言いたかったのよね、玄徳様。」
河を眺め、尚香は言った。
「尚香様…。」
人生をともにしてきた武具を捨てる。
それは武人でもあった尚香にとって決して軽い決意ではなかっただろうに。
「遅くなっちゃったけど、玄徳さまが願ってたことだから。
夢にまで来て言ってくださったんだもん。
これくらいは私も聞き入れなくちゃね。」
(幸せかって聞かれると答えにくいかもしれないけど。)
だって、あなたがいないから。
でもきっと幸せになるから。
約束だよ。
end