彼方へ
16
バン!
「ガブリエル様!?」
自分の目の前から攫うようにガブリエルを連れ去った兄の部屋の近く。
アンナ・ベルは兄がガブリエルに無体な事をするのではという心配を抑えきれず、様子を伺っていた。
その時に、ガブリエルが部屋から飛び出してきたのが目に飛び込んできた。
いつもの穏やかな物腰のガブリエルから想像もつかないほど憔悴した表情で。
そんなガブリエルをアンナ・ベルは見過ごすわけには行かなかった。
「ガブリエル様!どうなさったのですか!?」
その声に、ガブリエルは振り向いた。
常に見せていた優しげな表情は消え、戸惑いと恐れを隠しきれず。
男性に向ける言葉ではないのかもしれないが。
泣きそうな顔をだった。
アンナ・ベルは一瞬その表情すらも美しいと、感じた。
だが。
「アナ…、大丈夫です。私は、大丈夫ですから…。」
自分に心配をかけまいと、ガブリエルは笑おうとした。
勿論笑顔になってはいなかったが。
「ガブリエル様…そんなお顔で何をおっしゃるっているんですか?
そんな…辛そうなお顔で…!!」
アンナ・ベルはたまらない心持ちでガブリエルの手を取った。
その手は、とても冷たく感じていた。
ガブリエルも分かっていた。
自分が笑えてなどいない事を。
だが、今の自分をこれ以上見せるわけにもいかない。
たとえ彼女が知らないとはいえ。
神に仕える身の自分が、このような感情に捕らわれている事など。
誰であっても、見られたくはなかった。
「アナ…お願いです。
手を離してください。…一人にして欲しいのです。」
絞り出すような声と、傷ついた表情。
それは、アンナ・ベルの優しい心遣いを拒絶していた。
その顔を見た時、アンナ・ベルは今の自分には何もできない事を、察し。
手を離した。
「すみません、アナ…。」
それ以上、言葉を交わすことはなく。
ガブリエルは、客室へと戻った。
その様子を見ていた影に、気づくこともなく。
############
それから数日。
気まずいままで、ガブリエルはヴラディスラウスと言葉すら交わすことが出来なくなっていた。
そんな彼を、ヴラディスラウスは何を言うでもなく。
ただ時折、熱く感じるほどの視線を向けていた。
そんな様子を心配するのは、アンナ・ベル、そしてヴラディスラウスの父だった。
そして二人の関係の悪化を楽しげに見つめるのは。
母のエリディアと、そしてラドゥラスだった。
「…ガブリエル様、顔色が悪いご様子ですが、いかがいたしましたか?」
心配している言葉とは裏腹に、うっすらと口の傍を上げながら
庭園にひとりたたずんでいたガブリエルに、ラドゥラスが現れた。
ガブリエルは、怪訝に思った。
あの時以来…自分がラドゥラスに対して怒りを露にした時以来。
ラドゥラスはガブリエルを避けていたというのに。
だが、不審に思うからといって無下に扱うわけにも行かず。
早くこの場を去って欲しいと思いながら、ガブリエルは言葉を返した。
実際、数日前から体調が優れない。
たとえ正体が天使であるとはいえ、今のガブリエルの身体は間違いなく人間と同じものだ。
だから、それ自体は不思議な事ではなかった。
しかし、それ以上にガブリエルの本体である魂にも食い込むような倦怠。
そして心身全てがゆっくりと縛り付けられているような全身の圧迫感。
そんな状態で、ラドゥラスと話をすることに気が進まないのは、尤もなことであろう。
「ええ、少し気分が優れなくて…。
そろそろ部屋で休もうかと思ってるところですよ、 ラドゥラス殿。」
正直な所形だけとはいえ顔に笑みを浮かべる事すら億劫だった。
そう思いながら、ガブリエルは軽い会釈を返事につけて、ラドゥラスの横から部屋に戻ろうとした。
そして丁度ラドゥラスの横に着いた、その時。
「部屋とは、兄の部屋のことですか?
日のあるうちから…見かけによらず大胆なのですね?」
理解したくもない意味を含んだ言葉がラドゥラスの口から放たれた。
「…な…。」
ガブリエルはその言葉を聞いて、彼自身も気づかないうちにかつてないほどに動揺していた。
ガブリエルの表情に驚愕と、初めて見る羞恥が浮かぶのを見てとったラドゥラスは、
身体を走る興奮に打ち震える。
かつて自分を侮辱したこの美しいモノが、恥を感じている。
そのことが、ラドゥラスを喜ばせたのだ。
そしてラドゥラスはここぞとばかりに声を上げた。
「おや、素敵なカオだ。ガブリエル様。
どうやらあなた方は私が思っているよりも深い関係にあるようだ。
…兄はどのように貴方を悦ばせているのでしょうね。
是非お聞きしたい。」
続けられた言葉の露骨さに、ガブリエルはこの上なく嫌悪を感じた。
しかし、それと同時に頭に浮かんだ事が更にガブリエルを激昂させた。
「貴、様…っ…!!」
ガブリエルが怒りに任せ、ラドゥラスの身体を捕らえようとした。
その瞬間。
「ぐぁ…っっ!!!」
身体全体を支配するような熱が、ガブリエルの体内を襲った。
その熱に耐え切れず。
ガブリエルは膝をつく。
「な…。」
ガブリエルがその覚えのある感覚に驚愕している間に。
ガブリエルの様子に驚いたラドゥラスは短い悲鳴を上げ。
その場を離れて行った。
ガブリエルの異変を自分のせいにされる事を恐れて、人目につかないうちにその場を去ったのだ。
だが、ラドゥラスのことを気にする余裕など、今のガブリエルには無かった。
そう、今ガブリエルを襲っているこの感覚は。
(これは…デーモンの呪印…まさか…まさか・・・ヴラディ……)
「あぁああっ!!!」
再度ガブリエルの身体を耐え難い熱が襲った。
そして、ガブリエルの意識は途絶えたのだった。
庭園に倒れ臥したガブリエルが人知れず部屋に運ばれたことを、城の人間が知った時。
ヴァレリアス家の長男、ヴラディスラウスの姿は場内のどこにも見られなかった。
さてさて、いよいよ誰かさんの毒牙が忍び寄ってきましたね。
それにしても弱いな…ガブリエル。
大丈夫かなあこの天使さま。(^^;)
戻る